甲山古墳群(その2)

(第一第二支群はこちらから)

(第三支群)

0号
麓登山口辺りにある、古墳群中唯一目にしやすい石室だそうだ


看板がないと石室と思えない状況


その1
位置:34°08′08″N130°52′58″E (日本測地系)
   34.13879356 130.88039528(世界測地系)
登山道下方に墳丘が見えている


急斜面に構築、背後(右側)の斜面カットの様子も残る


南向きに開口、羨道は壊失


玄室完存長3m程、奥壁は1枚石


〃(縦位置)、切石状の天井石が一段下がる


左側壁、大型石材を据え上に平石を積む


右側壁も同様の構造、奥に奥壁状の石がある


奥から外、両袖式


〃(縦位置)


2枚の天井石の隙間処理がやや粗い、前側(画面下)のがやや前下がり


その2
僅かに石材露出、内部埋没


その3
斜面上から見た墳丘、良好に残るも石材露出無し


その5
_1:どれもこの程度の墳丘が残る


_2:手前に石材が僅かに露出


その7
全般に灌木に覆われて分かりにくい


墳頂に石材露出


その8
大きく破壊された石室


全長は6,7mくらいありそう


玄室最後部が残る、長さに比べて幅が狭い


奥壁は2段積み、その上も奥壁と言うより一段下がった天井石だろうな


左側壁、面を揃えている


その9
墳丘


西側に開口、内部埋没、ここが玄門かどうかは不明


その10
一番下方辺りにある墳丘


南向きに開口


羨道は基部が残る


ここも左側壁が崩壊、一段下がるのがまぐさ石でしょうか


その11
墳丘


盗掘でまぐさ石が残るのみ、はっきり西向きなのはここだけでした


その12
開口部の隙間が見える、藪の中では倒木がこのように見えて惑わされることもしばしば


平石の天井石が露出


内部は何とか残る


奥壁も一部見えている


その13
墳丘


隙間開口


内部は割とよく残る、小型ながら奥壁は1枚石


その14
右が墳丘、斜面をカットした様子がよく残る


天井に隙間がある、入るのは楽だが出るのはちと面倒


腰石を据えた奥壁


〃(縦位置)、側壁だけでなく奥壁丈夫も持ち送りしている


奥から外、羨道は埋没


〃(縦位置)


天井石は2枚、やはり前下がり


その15
登山道上にあった、天井石露出


石室奥は割とよく残る


小型の鏡石を据える


その16
やや離れた東側、石室かどうか分かりづらい状態


反対側


下方から、こちらが正面のようです


(第四支群)
その1
尾根上に2基並ぶ


その2
上記と反対側から


その3
僅かに高まりが残る


石材散乱


おまけ
_1:山頂手前にあった、大きな穴があるが盗掘坑にしては深すぎる、廻りも墳丘残りと言うより土手のようだ


(見学記)
せっかく来たので甲山に上ってみようと西側にある登山口に行ってみると甲山0号の立て札があってそこから50m程西側に崩壊した石室があります。簡単な説明板に”群中唯一の目にしやすい古墳、須恵器青磁出土”と書かれている。これがなかったら石室かどうか首を捻りそうな状態です。しかしこんなのがあるのならこの先にもあるかもと思って登っていったら150m程行った登山道下側斜面に良好な墳丘が見えてます。降りてみたら石室開口玄室は良好に残っています。周りは小灌木が茂って見通しが悪いですが墳丘が密集しているのがわかる。個々もねばって探して完存玄室2,破壊石室2,隙間石室3,4基見つけました。特に登山道からすぐ下のは見学しやすい。羨道は失っていますが玄室完存長さ3m程、奥壁側壁とも壁面が平面に整えられています。2枚有る天井石は前のが随分前下がりになっている。床面には扁平な玉石が見られて海岸から運んだのかもしれません。もう1基は西端辺り、天井隙間から入れますが出るのがちと苦労します。規模は前のとほぼ同じだが石積みは大分異なる。側壁だけでなく奥壁も上部が大分持ち送りされています。もう一つの破壊石室は玄室最後部が残存、奥壁上部が突き出ているというか天井が一段下がっているというかちょっと変わった構造です。盗掘跡を見ると全長が6,7mはありそうでこの群の中ではかなり長そうです。(仮称第三支群)。
更に登っていくと尾根筋に小さな古墳が2基並ぶが石室見あたらず、もう少し上に石材が散乱した場所があったが古墳でしょうか。天井石のような大きな石材は見あたらず(仮称第四支群)。
頂上すぐ側には一見大きく盗掘された墳丘のようなのがありましたが盗掘というにはあまりにも穴が深すぎる。周りは墳丘残部と言うより土手のよう。麓に幕末の砲台跡があるのでそれに関連した貯水施設でしょうか。一つでも見つかればと思って来てみましたが良好石室5基をはじめ結構見つかりました。分布が全く分からない状態では満足すべき成果でした。しかも入れる石室は簡単に入れる、入れないのは全く駄目、迷うような中途半端なのがないのが助かりました。墳丘の数の割に破壊されているのが少なく発掘すれば良好な石室がもっとある予感がします。港に駐車場有り。

若宮古墳

山口県下関市 1993年4月訪問

前方後円墳、TL40,R21,RH4,FW15,FH2.3、5C中
位置:34°00′32″N 130°55′38″E (日本測地系)
   34.01214459 130.92483961(世界測地系)

墳丘復元、公園として整備


周囲に陪墳が幾つかある


前方部から後円部、後円部深い場所に箱式石棺があり、追葬が確認されている


弥生墳丘墓、狭い墳頂に箱式石棺が5基もある、若宮古墳後円部(画面下)で墳丘の一部が削られている


(見学記)
博物館西側の小高い台地上に造られた全長40mの前方後円墳で墳丘が復元されています。主体部は元の地面近くに構築された組合式箱式石棺でこの種の石棺には珍しく追葬が行われ墓道の痕跡も確認されています。残念ながら石棺は見ることは出来ません,博物館にでも復元してくれたら良かったのに。周囲に箱式石棺を主体とした小型の円墳が5基有り古墳群を形成しています。なお後円部北側にある方形墳は一辺10m程の弥生墳丘墓で墳頂に箱式石棺が5基所狭しと並んでいる様子が復元されています。1号墳の築造の際南側が大きく削られていますが1号墳の位置を少し南にずらせば削らなくてもすんだのに。国史跡。

上の山古墳

山口県下関市 1993年4月訪問

画像無し

(見学記)

考古博物館から道標に従って行くと(道が狭いしあちこちで分岐しているので歩くか自転車が最適)川北神社にあった推定全長108mと市内最大の前方後円墳でしたが神社造営で完全消滅,跡形も無し。

植松古墳群

山口県下関市(旧菊川町)2002年4月訪問

7基、4-7号は発掘後消滅、2,3号は公園化

1号
横穴式石室
位置:2号東50m
墳丘、石室正面


鏡石を据えた玄室、上部に持ち送りがありドーム状


奥から外、両袖式


2号
横穴式石室
位置:34°07′31″N 131°01′18″E (日本測地系)
   34.12852119 131.01927319(世界測地系)
復元された墳丘、右2、左3号、3号は石室が開口していない


復元墳丘


石室内部、発掘されず現状のまま保存


5号
石室を公園内に移築保存


(見学記)
盆地の中の平野部にある7基からなる古墳群だが4-7号が農地整備で発掘後消滅した。元々田圃の中に石室の一部しか残ってなかったらしいが金環馬具など豊富な遺物が出土した。2,3号は発掘せず墳丘を復元して公園となっている。5号の石室もここに移築された。1号墳が公園の東側に現状のまま残っている。羨道は殆ど壊失しているが玄室は完存、奥壁に鏡石を据えたドーム状の玄室です。ただ内部は粗大ゴミが散乱、片づけながら写真を撮ったので写ってはいませんが。
(追記)現在1号は閉鎖され入れません

上ヶ原古墳

山口県下関市 1993年4月訪問、2007年12月再訪

方墳、L15.4×13.1
位置:34°00′41″N 130°56′43″E (日本測地系)
   34.01464455 130.94289362(世界測地系)

県内で珍しい方墳(93年)


南側から(07年)手前にあるのが2号有蓋土壙


西側から、手前が上ヶ原古墳に先行する竪穴石室


(周辺の埋葬施設)
1号有蓋土壙墓
浅い穴を掘り中央に粘土で埋葬施設を構築


蓋石を撮った状態


蓋石


2号有蓋土壙墓
上ヶ原古墳墳丘南裾に構築、上ヶ原古墳より先行している


蓋石


竪穴石室
上ヶ原古墳西側裾に構築、旧下関市内で初めて発見された竪穴石室


盗掘で上部の石が動かされている


(見学記)
植松古墳すぐ西側にある方墳です。以前見に来たときはこれが古墳かいなと半信半疑だったけど間違いなかったようでホッ。既に発掘で主体部は箱式石棺と確認されているので今回は墳丘範囲の確認と周囲に幾つかのトレンチを入れ有蓋土壙墓3基と竪穴石室1基が確認されました。1号有蓋土壙墓を除けばみな上ヶ原古墳に接するようにありますが上ヶ原古墳の方が後から構築されたことが確認されました。なんでこんな窮屈な場所に構築したんだろう。竪穴石室は盗掘されていましたが有蓋土壙墓の方は未盗掘、しかし副葬品は1号で土器が1点出てきただけでここでも貧乏ぶりが偲ばれます。こちらは史跡範囲外だけど多分史跡指定されるんじゃなかろうか。

植松古墳

山口県下関市 2002年4月訪問、2007年12月再訪

方墳、L20×16,H3.3(現状)
位置:34°00′39″N 130°56′46″E (日本測地系)
   34.01408906 130.94372689(世界測地系)

背の高い墳丘が残る、古墳関連の施設は検出されず


(見学記)
(2007年)
仁馬山古墳すぐ北側にある方墳です。こちらも同時に発掘、墳丘を十字に切るようにトレンチが入りましたが主体部未検出、周溝も外装施設も確認できず古墳であることが怪しくなってきました

(2002年)
仁馬山すぐ東側四ツ辻脇の民家北側にある古墳で,県内でも珍しい一辺十数mの方墳,詳細は全く不明。このすぐ西側畑の中にやはり方墳の上ヶ原古墳がありますがこちらはかなり低平な墳丘のようです。更に北側竹藪の中に小さな古墳がありこれが下有富古墳のようです。石室石材らしき石が見えています。

杉田線刻岩

山口県下関市 1988年4月訪問

位置:33°55′46″N 130°55′20″E (日本測地系)
   33.93270753 130.91984203(世界測地系)

古墳の石室とも言われるが正体不明


線刻壁画、線刻にペンキを埋めて表示


(見学記)
彦島字杉田の丘の上に線刻を施した1個の割石があります。現地では杉田古墳として案内板がありますが石室の側壁に彫られた物と見る説と古墳が破壊された後彫られたと見る説があるそうです。この場所は私の生まれた家から100mも離れていない場所でこの辺りでもよく遊んでいるんですがこんな石があったかいな,全然気づかなかったぞ。

心光寺古墳

山口県下関市(旧豊浦町)2002年4月訪問

横穴式石室
位置:34°08′46″N 130°54′29″E (日本測地系)
   34.14934866 130.9056702(世界測地系)

石室下部のみ残存、水が貯まっているとただの池と間違えそう


(見学記)
心光寺の裏山(といっても10数mの高さだが)に玄室の下部が残存している。玄門あたりを見ると何とか石室だと分かるが水でも張っていればただの池と思うかもしれない。

中村古墳

山口県下関市 2007年5月訪問

横穴式石室
位置:34°02′50″N 130°59′39″E (日本測地系)
   34.05047399 130.99177742(世界測地系)

民家敷地内、石室完全露出


加工度の高い側壁


石室正面、内部は土砂やゴミで埋没


発見のきっかけとなった案内板(矢印加筆)、よく見かける絵図だがこれだけで見つけるのはかなり難しい


(見学記)
信号停止で止まった脇に近隣の史跡を紹介した案内板があった。普通はこういうのは見ないと言うか気にもしないのだがなぜかこの時は予感があったのかちらっと見てみると古墳の名前があった。さすがに簡単な絵図だしどんな古墳なのかどんな状況なのか全く分からないので後日バイクで探索、地名だけを頼りに探してみたがやはり分からないので地元の方に訪ねて場所が分かりました。個人の敷地内にあって思いがけず石室、しかも多分市内でも最大級の石室じゃないか。残念なことに墳丘はすっかり流失し玄室が露出、石材が放り込まれて内部も撮影できない状態でしたがまだまだ石室が残っているんだと驚いた次第でした。

三浦山1号

山口県下関市(旧豊北町)2010年9月訪問

石棺系竪穴式石室
位置:34°18′48″N 130°53′40″E (日本測地系)
   34.31655507 130.89205549(世界測地系)

石室移築復元


がっちり固められている


人一人が入るのがやっとの大きさ


石室内部


和久1号からの遠望、建物裏に1号移築


(見学記)
字神田、和久1号から北東、湾越しに見える岬の上にあった古墳群で現在1号墳の石室が生涯学習センター裏に移築、墳丘もコンクリートで1/4カットした状態で復元されています。石棺系竪穴式石室だそうで人間が一人入るのがやっとの大きさです。しかし案内板も説明板も全く無し、何のため復元しているんでしょうね。センターに駐車場有り。
近くで発掘された夕陽丘古墳の石室も保存が決まっていて石材が保管されていますが移築場所が決まらず塩漬け状態、この側では駄目なんでしょうかね、幾らでも余裕があるんだけどな。
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