丸小山古墳

山口県下関市 2017年6月訪問

円墳、R10程度、6C後半~7C前半
横穴式石室、全長4.2m、玄室長2.4,幅1.25-1.54m
位置:34°00′25″N 130°56′26″E (日本測地系)
   34.01020053 130.93817185(世界測地系)

半独立丘陵上、頂部よりや役立った斜面に立地、丘陵南半分は以前の工事で削られた


上部を失った石室、それ以外残り具合は良い、床面前面に敷石


羨道先端まで残っている、前面に列石を配置


敷石は羨道途中まで、仕切り石で区画


右斜前から


左斜め前から


真横から


右後方から、見納めなので色んな角度から撮影


真後ろから、奥壁下部の石背後が見えている


出土遺物


丘陵頂部辺りで出土した鉄鏃、別の埋葬施設が予想される


見学記
下関市延行、丘陵から派生した小さな半独立丘陵上にある古墳です。遺跡自体は以前から知られていましたが1986年住宅開発に伴う事前調査で石室が見つかり見つかり新たに丸子山古墳と命名されました。17年本格的な発掘で石室全貌が判明、上部を失っていますが玄室や羨道下部が良好に残っていました。丘陵頂部よりやや西に下った斜面に構築、南側に平野が広がっているのに何故か北西に開口、全長4.2m、玄室長2.4、幅1.25-1.54m、両袖式ですが左袖はあまり明確ではない。床面には角礫が敷かれ一部羨道にまでおよび仕切り石で区切られている。奥壁沿いには平石が敷かれ明らかに違った区画、この片隅から臼玉が出土しています。石室前面だけに列石がある。市内では良好に残る石室だけど残念ながら発掘後消滅するようです。
(追記)17年12月現在、丘陵ごとすっかり削平されていました。移築もないようです。

みばやし古墳群

山口県下関市 1993年4月訪問、2017年1月再訪

7基以上

(2017年)
その1
位置:34°00′29″N 130°56′19″E (日本測地系)
   34.01131152 130.93622755(世界測地系)
墓地北側、最初に出会う


現状ではこれが最大かな


その2
僅かな高まりだがこれでもましな方


その3
取り敢えず高まりがあれば撮る


その4
肉眼だとハッキリ分かるんですが


その5
写す方向も大事、なるべく障害物がないようにね


その6
障害物がないと写真でも比較的分かりやすい


その7
これはもう肉眼でないと分からない


(1993年)
画像無し

(見学記)
(2017年)
下関市延行、延行送信所南方150m、丘陵最高所辺りの平坦面に分布する古墳群です。前回訪問した時は墳丘だけだったのでアップはパスしたので再訪してみました。記憶の中では開放的な墓地の中に土饅頭のような墳丘があるイメージがあったのですが行ってみるとまるで違っていました。頭の中で他の古墳と混乱していたかも(実際経験あり)、とは言え違いすぎたな、四半世紀くらい経っているからいたしかたないか。送信所東側の住宅脇を通って林の中に入ると墓地があります。その手前に背の高い墳丘があってこれが一番良好(後で古墳群に属さない岡古墳と判明)、墓地の手前にも1基、更に墓地を通り過ぎて竹林の中に5基確認できました、どれも低い墳丘です。幾つかの古墳で頂部が盗掘されていますが石材は全く見られず木棺直葬かもしれません。前回は6基、今回は7基確認したからほぼこれくらいの規模かな。送信所脇に駐車スペースあり。

(1993年)
更に東に行くと海上保安庁送信塔の南側墓地周辺にある古墳群です。小型の円墳が7基確認できました。内部主体は不明。更に東側仁馬山古墳との間にも2基有り。

岡古墳

山口県下関市 2017年1月訪問

位置:34°00′33″N 130°56′23″E (日本測地系)
   34.01242252 130.93733855(世界測地系)

みやばし古墳群北東100m辺りにある、単独墳のようで固有名が付いていました


高さ3m程、径の割に背が高い


見学記
みやばし古墳群の手前にある古墳です。てっきり古墳群に属していると思っていましたが岡古墳という別の名前が付いていました。そういう目で見るとみやばし古墳群の墳丘と比べると随分背が高いです。高さから後期古墳かと思われますが周囲が多少削られているのにもかかわらず石材は全く見られません。墳丘には太い竹が密生しています、裸の状態だったらまだ見応えがあったんですけどね。

迫山石棺(安岡八幡宮石棺)

山口県下関市 2014年2月訪問

箱式石棺
位置:34°01′39″N 130°55′10″E (日本測地系)
   34.03075336 130.91706237(世界測地系)

偶々訪問した神社で偶然見つけた、標柱は安岡八幡宮古墳となっている


標柱反対側にある、背景は一見円墳のよう、祀り事の対象になっているようだ


蓋石3枚露出、棺身も見えている、原位置のままでしょうか


蓋石の下に棺身、内部は埋没


見学記
下関市安岡、別の目的で神社に行ったら境内に”神功皇后ゆかりの武将の石棺”なんて説明板(石柱)があった。神功皇后はともかく石棺に惹かれて慌ててゴー、どうやら箱式石棺のようで現在は御霊屋のように祀られているようです。神社が低い丘陵上にあってその頂部が一見円墳風、その裾辺りにあります。蓋石3枚と身の一部が見えているが内部は埋没、3世紀のものだそうです(出土品からより神功皇后関連ということで3世紀としたのかな)。ひょっとして頂部にも別の主体部があるかもしれない、と勝手想像。実は説明板を見る前にこの脇を通っていたのですが円墳そっくりの地形だなと思ったけどここに古墳があるはずないなと通り過ぎ箱式石棺も気が付かなかったよ。現地標柱は安岡八幡宮石棺となっていますが県遺跡地図では迫山石棺となっています。神社駐車場あり。

観音岬古墳

山口県下関市 1988年4月訪問、2017年1月再訪

前方後円墳、R27、5C
位置:34°01′21″N 130°54′26″E (日本測地系)
   34.0257536 130.90484134(世界測地系)

(2017年)
南西からの遠望、海に突き出た岬上に立地


墳丘のように見えますが殆ど林です


グランド側に保存、説明板がなくなっていた、林が透けていて墳丘が低いのが分かる


後円部墳頂は広く前期古墳を思わせる


江戸時代の墓石でしょうか、人工物があったのはこれだけ


(1988年)
響灘に突き出た岬上に立地、前方部削平


(見学記)
(2017年)
下関市安岡本町3丁目、岬に立地した前方後円墳です。北バイパスから岬の上に乗っかったような古墳が遠望できるので行ってみました。以前は説明板が立っていたがそれがなくなっているが他は変わりなし、全体が雑木に覆われていて中に入っていく道もありません。それでも強行突入、前方部が壊失していますが南西側に出っ張りがあり多少は残っているようです。後円部は上部は広く平坦になっていて前期古墳を思わせます。上には墓石が1個あるのみ(明治か江戸後期か)。入り口辺りに駐車スペースあり。

(1988年)
安岡の西側,海に突き出た村崎ノ鼻の南端に位置する前方後円墳ですが径27mの後円部のみ残っています。

大門古墳

山口県下関市(旧豊浦町)1993年4月訪問、2017年1月再訪

前方後円墳、TL33,R17,RH3.5,FW16
横穴式石室、玄室長2.9,幅2.8,高2m
位置:34°07′23″N 130°55′27″E (日本測地系)
   34.12629625 130.92178069(世界測地系)
(2017年)
南からの遠望、矢印が古墳、北西に伸びる舌状丘陵先端近くに立地、右下の作業小屋辺りから入っていける


四半世紀ぶり、見通しが良くなっていたが大きな説明板が倒れている


反対側から、前方後円墳なのがよく分かる


前方部から後円部


後円部から前方部、前回は所有者の方がベンチに座っていたのが思い出されます


全国的に稀有な土管羨道(笑)、左右の石はオリジナル?


ドーム状玄室、奥壁下部は隙間なく丁寧に据えている


合成して迫力を増してみました


右側壁は上部がかなり持ち送り


左側壁はそれ程でもない


狭く細長い天井、右が奥側


奥から外、両袖式、しきみ石が大きく入り口が狭い、床面には河原石の敷石がある


〃縦位置


(1993年)
後円部側面、羨道保護のため入り口に土管を埋設


持ち送りのある玄室、下部にやや大型の石を据えている


天井、かなり狭い


両袖式、写真では分からないが玄室床面が1段下がる


(見学記)
(2017年)
下関市豊浦町大字黒井、山地から長く伸びた舌状丘陵先端辺に構築された前方後円墳です。ここも四半世紀ぶりの訪問、場所は分かっているけどどうやって丘の上に上がったがすっかり忘れているので衛星写真で見てみたら北側からの方が接近しやすそうだったので行ってみたら藪状態で無理、麓を廻っていたら地元の方に会って案内してもらえました。墳丘廻りは果樹園ですが既に所有者が止めていて放置状態、開口部前の説明板も倒れています。その割には見学しやすく小さいながらも背の高い墳丘が残っています。羨道は土管状態だけど余程羨道の状態が悪かったんでしょうか、こんな例は他に見たことがないですね。羨道はガッカリ感が強いですが玄室は完存、これは見学の価値あり。背が高く天井が狭いドーム状、ただ天井は円形でなく長方形です。南西側から入っていく道があります、墳丘の上に桜があるのでそれが目印、高い木なので冬でも目印になります。市史跡。
地元の方に聞いた話によると所有者の方が入院され果樹園はされていないそうです。この日はまだそれ程ではなかったですが今後は荒れ果てることが予想されます。

(1993年)
山陰本線黒井村駅途方1kmにある全長32mの前方後円墳です。西に伸びる尾根の先端に立地主軸は尾根と直交していて後円部西側に横穴石室が開口,土管のような物(これはどうにかならなかったんですかね、羨道はどうなったんだろう)が突き出ていてここから入っていくと玄室にたどり着きます。両袖式で小型の割石を使った持ち送りの強い玄室で平面規模の割に背の高い石室です。墳丘は周辺がかなり削られていますが何とか前方後円墳と分かる程度,ミカン畑の中にあって近くまで行かないと存在が分かりません。町史跡。

中畔古墳群

山口県下関市(旧豊浦町)2017年1月訪問

川棚神社裏山に分布


その1
位置:34°08′55″N 130°56′07″E (日本測地系)
   34.15184939 130.9328901(世界測地系)
神社背後、山道脇にはっきりした墳丘


信仰の対象になっているようです


特に石材露出は見られず


その2
更に登っていくともう一つの墳丘、これは山道削り残しのようにも見えました


下方に石材露出、どう見ても石室のように見えます


石室天井石だよね・・・


後方の石が中心線よりずれているような気がしないでもない


見学記
下関市豊浦町大字川棚、川棚小学校側の川棚神社背後の丘にある古墳ですが情報は全くなし、神社なら目印になりやすいだろうと思って行ってみました。本殿脇を通って林の中に入るとすぐ墳丘らしいのが目に入りました、石材は全く見られませんがこれは古墳で間違いないでしょう。すぐ上にも同様のがあり初めは山道を造成した削り残しかと思いましたが石室らしい石組みも露出している、ただ100%間違いないかと言われると自信無し。他にも怪しいのは幾つかありましたがハッキリしていたのはこの2基だけでした。神社に駐車場有り。
ここは県の遺跡地図では水道山遺跡となっています。近くに古墳がありますが下畔古墳は神社西側にある小学校の西側、後楽古墳は更に西側、高迫山は古墳はずっと東側で明らかに位置が違います。保育社「日本の古代遺跡(山口)」では中畔下畔古墳群となっていたけどこれも2つの地名が合わさっているようにみえるので一応中畔古墳群としておこう、古墳群と思っていたから複数探したしね。遺跡地図が必ずしも正確とは限らないから実見した方を大切にしよう。

上燈山古墳

山口県下関市(旧豊田町)2016年12月訪問

横穴式石室
位置:34°10′34″N 131°04′00″E (日本測地系)
   34.17935047 131.06426862(世界測地系)
丘陵から突き出た小丘陵上に立地


案内板あり、右側の山道を行く、ストリートビューでも見えているが一部文字が判読出来ず


最初に見かける巨石、天井石でしょうか、石室からは10m以上離れている


板状の石で構成された石室下部残存


右側の石があるからややこしくなっているがやはり動かされた石でしょうか


右側(西側)が入り口側でしょうか


初めは上辺のここが玄門かと思いましたが石材が1枚抜かれているだけかな、奥壁にしては石材が薄いけどね


見学記
下関市豊田町手洗、江良古墳群南東200mにある古墳です。丘陵先端に構築されていますが丘陵が県道65号で切断され半独立丘稜のようになっています。丘陵西側林際に案内表示がありますがそれだけで他にはなにもありません。林の中に入ると天井石を思わせる巨石がありその奥に基部だけ残った石室がありました。残存長1.5m程度、石組みだけ見ると横穴石室よりは箱式石棺を思わせますが幅が5,60cmはあったのでむしろ石槨っぽいけどそれにしては大きすぎるかな。古墳がある場所は丘陵南端ですが先端が不自然に盛り上がっていて上部はまっ平らに整形されています。時代は分かりませんがかなり人間の手が入っているようです。
ここは古いパンフを整理していて偶々手洗古墳群と言うのを知りました。2005年に発掘され2基の石室を発掘、現状はどうなっているか分かりませんでしたが探しに行ったらこの古墳を見つけました。多分手洗古墳群の1基でしょうし県の遺跡地図でもこの場所が手洗古墳群になっているんだけどかなり広い範囲になっていて他を見つけるのは難しそう。遺跡地図には上燈山古墳の名前は載っていませんでした。それはともかく石室が見つかっただけでもラッキーでした。

和久1号

山口県下関市(旧豊北町)2010年9月訪問

円墳、R10、6C中~後半
横穴式石室、玄室長3.0,幅1.4m
位置:34°18′27″N130°53′25″E (日本測地系)
   34.31072226 130.88788923(世界測地系)

10年発掘


斜め前から、天井石は安全の為外す


外された天井石


石室正面、閉塞石が残っている、羨道はあっても短かったようだ


玄室、奥壁は鏡石を据えている


石室背後上から、入り口辺りに敷石


整備復元

元の状態ほぼそのままに整備


天井石は復元せず


斜め後ろ上から


天井石は外したまま並べて展示


玄室、発掘時無かった奥の敷石まで復元している、奥壁最上部の石も微妙に違うような


現説時には入れなかったので奥から外も撮影


(見学記)
下関市豊北町大字神田上、R191号沿い小さな湾を見下ろす小丘陵上から西に伸びた尾根上にある古墳です。ただ小丘陵が道の駅建設で殆ど削平され一見独立丘陵頂部にあるように見えています。2010年道の駅建設に伴い発掘されました。玄室長3m程の両袖式、砂岩と一部火成岩で構成、床面には玉砂利が敷き詰められていたようです。羨道は極短く閉塞石も残っていました。天井石は3枚残っていましたが状態が悪く発掘の際取り外されました。盗掘を受けていましたが既にその前に入り口辺りから土砂が流入して一部埋没おかげで玄門辺りにあった須恵器がほぼ完形のまま出土しました。その他水晶製切子玉や鉄刀馬具の破片などが出土しています。道の駅建設後はここは展望台として利用されるそうだけど確かに見晴らしがいい場所です。古墳をどのように復元するかは今のところ不明。市史跡。
実はここは88年に訪問、偶々国道に案内表示があったので行ってみたけど当時は藪の中でさっぱり分からない状態でした。再会する機会があるとはね。
(追記)
2012年3月、道の駅北浦街道開設に伴い復元公開されました。殆ど発掘当時と変わらず天井石も元に戻さず側に並べられて展示されています。古墳に興味がなくてもこの場所は展望台的な役割で眺めが良く北方には角島や角島大橋が遠望出来ます。

観音堂古墳

山口県下関市 2009年6月訪問

横穴式石室、玄室長2.7,幅2.4m
位置:34°00′38″N 130°56′47″E (日本測地系)
   34.01381131 130.94400465(世界測地系)

09年発掘、石室背後から


石室正面、玄門がやや東(右)に偏る


床面には敷石、現説前なので遺物にはカバー


正方形に近い平面形


元位置を保った鉄剣


水晶製切子玉


瑪瑙製勾玉


移築

元の位置よりやや南側に移築


新設道路より下にあるので直接は見えません



床一面に敷石、今思えば随分風変わりな両袖式


この袖石はよく残ったものだ


(見学記)
下関市有富、道路建設に伴い09年発掘現地説明会が行われました。南向きの緩斜面に構築された墳丘は既に流失し石室も基部しか残っていませんでしたが既に中世の頃天井部が崩落していたため却って盗掘の被害を免れ鉄剣や勾玉などの遺物が元位置のまま豊富に出土しました。石室は移築保存が決定していますがまだ保存場所は決まっていないようです。
ここは地元なのに全く知らずoobutaさんに教えて貰って一緒に行って来ました。当日NHKのカメラが取材に来ていたので夕方のニュースを見ていたら二人ともしっかり写っていました。もっともほんの1,2秒でその気になってみないと分からなかったですが。
(追記)
開通した道路脇に石室が移築保存されました(元の位置よりやや南側)。でも道路面より下側になるので車で走りながらでは存在が分かりません。移築は元の場所からなるべく近い所が原則なんでしょうがこんな場所では見学者も殆どいないのでは。西側に考古博物館や綾羅木郷遺跡公園があるからそこに移築した方が余程活用できるかなと思いますけどね。
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