山上古墳

群馬県高崎市 1992年1月訪問

円墳、R15,H5、7C中
石室全長7.4m、玄室長2.7,幅1.7m
位置:36°16′27″N 139°01′52″E

墳丘、側の建物に山上碑がある


石室入り口


羨道、左右の石の積み方がかなり対称的


切石積みの見事な玄室、ここもかなり対照的、奥壁右上に注意


両袖式、玄室に奥行きが無くめくら撮りで画像が斜めになった


山上碑


金井沢碑:近くにある三古碑の一つ


(見学記)

側にある山上碑とのペアで有名な古墳です。径15m、高5mの円墳で谷を南に望む丘陵中腹に立地、いかにも終末期の古墳を思わせる場所です。南側に石室が開口、全長7.4m、玄室長2.7,幅1.7m、凝灰岩切石積みの見事な石室で石の積み方が左右対称になるように意識しているようです。奥壁は1枚石にする予定だったようだが何故か右上が欠けていて切石で埋めているのがご愛敬。側に山上碑があり建物に保護され窓ガラス越しに見ることが出来る、が碑文はまず読めない。最近の研究では古墳は石碑よりもやや古く7C中頃の築造とのこと。国史跡。
近くの団地に登る途中に3古碑の一つ金井沢碑があるが場所は分かりにくい。こちらも覆い屋で保護され見学は窓ガラス越し、こちらは碑文が書かれているのは何とか分かる。

山名原口古墳群

群馬県高崎市 2000年1月訪問

前方後円墳1、円墳10基程度残存、河岸段丘上に直線状に分布

この様な背の低い墳丘が直線上に並んでいる


2号
天井石を失った石室を現地に保存
武具、馬具、玉類など豊富な遺物が出土
位置:36°16′13″N 139°02′34″E

玄室後方上部から、発掘された状態で覆い屋で保存


玄室、やや奥が広がる羽子板状、手前は玄門しきみ石


両袖式、羨道は狭い


玄室側壁、人頭大の石に小さな川原石を詰めた模様積み、典型的な模様積みの石室をもつ伊勢塚は川を挟んだ南側にある


(見学記)

山上古墳のある丘陵の南側河岸段丘状に直線上に古墳が並んでいます。前方後円墳を1基含むが原形はとどめず他も背の低い墳丘が残っています。グラウンド造成の際横穴石室を検出、これが2号墳で下部しか残っていませんでしたが金銅製耳環、水晶切子玉、瑪瑙勾玉、碧玉管玉、武具、馬具等多数の副葬品が出土しました。朝日グラフ古代史発掘89で歯を付けた埴輪が出土したのもここだろうか。石室は羨道は狭く玄室が奥がやや広がる羽子板状、奥壁はやや大きな石を据えていますが側壁は人頭大の石を積み隙間に小さな川原石を多数詰め込んだ模様積みです。現在石室は覆い屋を架けて保存され見学も容易です。

多胡薬師塚古墳

群馬県高崎市(旧吉井町)1992年1月訪問

円墳、R25,H3.5、7C後半
横穴式石室、全長5m,玄室長2.1,幅2.1
位置:36°14′31″N 138°59′28″E

墳丘、石室正面


石室入り口、鳥居状に切石を組み合わせている、上の石に楔の跡がある


玄室側壁、巧みな石の組み合わせ、左側の奥壁は1枚石の切石巨石


両袖式、羨道側壁は縦長の石を並べた珍しい構造


(見学記)

丘陵上にある古墳だが平野を望めない位置に立地している。径25m、高3.5mの円墳で墳丘石室が良好に残存している。全体に切石を使った石室で全長5m、入り口は鳥居状の石組みで上の石にはくさびを打ち込んだ跡が残っている。羨道は縦長の切石を並べた珍しい構造、玄門上のまぐさ石には僅かな段差を付けて袖石と組ませずれないようにしている。玄室は切石の巨石を使い側壁上部にはL字型に組んだ巧みな技法も見られる。町史跡。

綿貫古墳群

群馬県高崎市 1990年1月訪問、2000年再訪

前方後円墳3残存

普賢寺裏古墳
前方後円墳、TL61,R36,RH6,FW23,FH3
位置:36°18′08″N 139°04′53″E

右手が前方部、寺北側に墳丘が良好に残っているが何故か案内書などには載っていないことが多い


後円部正面


不動山古墳
前方後円墳、TL94,R54,FW56,RH10,FH9、5C後半
位置:36°18′03″N 139°04′55″E

右手が前方部、殆ど削平されている


後円部南側、航空写真で見ると周溝や平面形がよく残っている


墳頂にある舟形石棺の身、蓋は壊失、覆い屋をかけて保存されている


小口部の巨大な縄掛け突起


綿貫観音山古墳
前方後円墳、TL97,R61,RH9,FW64,FH9、6C末
石室全長12.5m、玄室長8.2,幅3.5m
位置:36°18′15″N 139°04′50″E

復元された墳丘、公園として公開


墳丘西側側面、後円部中段に石室開口


前方部斜め後方から


前方部から後円部


石室正面


石室内部


玄室、互目積みの壁面が美しい、入室要予約、未盗掘の石室で豊富な副葬品が出土、近くの歴史博物館に展示、石室の実物大断面模型もある


(見学記)

県立歴史博物館の1km北方に3基の前方後円墳が並んでいます。これ以外にも前方後円墳の岩鼻二子山古墳や10数基の円墳がありましたが全て消滅。

綿貫観音山古墳
一番北側にある全長97m、後円部径61m、前方部幅64m、後円部高9mの前方後円墳です。2段築成の墳丘や周溝外堤などが整備復元されています。後円部中断に切石積み両袖式の石室が開口(入室不可)、全長12.5mの両袖式で側壁は榛名山二つ岳産出の石材を使った人頭大の切石互目積み、天井石には牛伏砂岩が使用されています。未盗掘だったそうで豊富な副葬品が出土しました。遺物は歴史博物館に展示、石室の実物大断面模型もあります。実物を入り口から眺めてもそんなに大きく感じられないが模型を見ると結構大きい。平野部にあって非常に目立つ墳丘で遠くに榛名山など上州の山並みが見え、冬晴れの早朝に行くと青空を背景に朝日に輝く墳丘がとてもきれいです。国史跡。

普賢寺裏古墳
文字通り寺の本堂裏にある全長70mの前方後円墳です。墳丘が良好に残っているにもかかわらず何故か案内書などに載っていない。歴史博物館ロビーに幾つもの史跡見学コースのパンフがあるがこれにも無視されている。

不動山古墳
一番南側にある全長94m後円部径54m前方部幅56m後円部高10mの前方後円墳です。R354脇にありますが遺存状況はあまりよくなく前方部は殆ど削平されているようだ。航空写真で見ると周溝が巡っているのが分かる。後円部頂にお堂がありその裏に全長3.45mの舟形石棺の身が残存、両側に大きな縄掛け突起がついています。かっては雨ざらしの状態でしたが現在は覆い屋がかけられて保護されています。市史跡。

若田古墳群

群馬県高崎市 1992年1月訪問、1997年、2006年再訪

八幡霊園内と周辺に数基保存

剣崎長瀞西古墳
円墳、R25,H6
位置:36°20′44″N 138°56′51″E
この東側に剣崎長瀞西遺跡がある(97年)


墳丘復元(06年)帆立貝式の可能性があるとのこと


峯林古墳
円墳、R18,H3.6、7C後半
石室全長6.3m、玄室長3.4,幅2.5m
霊園内に保存
位置:36°20′46″N 138°56′23″E
墳丘


やや胴張りの玄室


両袖式


石室上部、石の積み方がよく分かる


休み塚古墳(物見塚古墳)
位置:36°20′35″N 138°56′43″E
霊園入り口付近にある


石室露出、内部は埋没


若田大塚古墳
円墳、R30,H7、5C後半

右側、竪穴石室がある、左側は楢の木塚、かなり土盛りされているとのこと


(見学記)
八幡霊園内とその周囲に幾つかの古墳がある。

若田大塚古墳
八幡例園内にある径30m、高7mの円墳です。5C後半の築造で墳頂下6mの所に竪穴石室があるとのこと。県史跡。すぐ西側に楢の木塚古墳が並んでいる。一見同じ様な大きさだがこちらはかなり土盛りされているとのこと。主体部は横穴石室。

峯林古墳
霊園の中央部にある径17.6m、高3.6mの円墳です。石室が開口、天井石は羨道しか残っていないが枕状の自然石を使った両袖式やや胴張りの玄室で羨道前には前庭がある。石室全長6.3m、玄室長3.4,幅2.5m。県史跡。
霊園に入るT字路にも休み塚古墳があり、玄室は埋まっているが石室が露出している。

剣崎長瀞西古墳
霊園東側の道を北に行くと小学校脇にある。径25m、高6mの円墳で藪に覆われているが北側の平野を一望できる目立つ場所にある。このすぐ東側で97年当時発掘が行われていた。北向きの緩斜面に立地する古墳群です。元々背の低い墳丘のようで周溝、葺石を伴い、中にははっきり方墳と分かるのもあった。その後別冊歴史読本「古墳研究最前線」にこの遺跡が紹介されていた。それによれば名称は剣崎長瀞西遺跡、積み石塚とのこと。それを知っていればもっとよく見ておけば良かった。すぐ南側の果樹園の中にも古墳が点々とある。墳丘は殆ど流失し崩壊した石材が露出している。こちらは横穴石室のようだが別系統の古墳群だろうか。

塚中古墳群(奥原古墳群)

群馬県高崎市(旧榛名町)1992年1月訪問、1997年再訪

56基中23基保存、地上に見えるのは7-8基程度

4号


6号
皆表示板が付いている


9号
左奥に7号、右奥に53号


53号
円墳、R25,H3、7C初頭
横穴式石室、全長8.8m
位置:36°21′42″N 138°56′03″E

墳丘、群中最大、周囲をフェンスで囲まれている


玄室、奥壁は1枚の巨石、他は自然石乱石積み


両袖式、やや持ち送りがある


発掘風景:53号南側、92年当時、墳丘下部が残存、方墳?、石室内に敷石があり閉塞石も残っている


(見学記)

奥原53号
しどめ塚を更に西に上がっていくと工場の東側に53号の墳丘が復元されています。横穴式石室が開口していますが墳丘がフェンスで囲まれていて入ることは出来ません。土地改良に伴い56基中36基が発掘され他は現状保存されたそうです。と言うことは36基は53号以外は消滅したんでしょうね。周りに6基の古墳がありこちらは町の史跡として保存されています。何故か名前が塚中古墳群となっています。

土合1号

群馬県高崎市 2006年4月訪問

横穴式石室
位置:36°16′41″N 139°02′29″E

上部を失った石室


南八幡中学校に移築

地里付様古墳

群馬県高崎市 2005年5月訪問

円墳、R15,H2
横穴式石室
位置:36°19′29″N 138°56′48″E

墳丘、石室開口部、石碑の土台となっている


小型の玄室、内部はかなり埋まる


(見学記)

同市鼻高町、安中市との境界近くにある古墳です。キリスト教墓地の近くにあり上に石造物が立っています(北側の集落に鼻高の石造物の案内表示があったのがこれだろうか)。石室が開口していますが玄室しか残っていないようで内部もかなり埋まっています。わざわざ入るほどの物でもない(入ったけど)。

多比良古墳(諏訪前古墳)

群馬県高崎市(旧吉井町)1992年1月訪問

墳形不明、7C後半
横穴式石室、全長5.6m,玄室長2.8m
位置:36°13′42″N 139°00′36″E

石室側面、左手が羨道、封土はすっかり流失、その割に石室は羨道までよく残っている


石室正面、手前が羨道入り口の石、他より丁寧に加工されている、画面右手の石が玄門袖石


(見学記)

丘陵上、集落の一角に墳丘がすっかり流失した石室が露出している。ただその割に石室はほぼ完全に残っているようで玄室だけでなく羨道入り口の鳥居状の石組みまで残っていて石室の構造がよく分かる。石室自体はそれ程大きくなく全長5.5m、天井石は大きな1枚石他は割石を使用、羨道入り口の石は墳丘外側に露出していたせいか加工がやや丁寧なようだ。中は埋没していないが入り口が狭く廻りをフェンスで囲まれているため中には入れない。町史跡。

多胡村115号

群馬県高崎市(旧吉井町)2006年4月訪問

円墳、R16(基壇部18.8m)
横穴式石室、全長7.9m

多胡碑記念館に移築復元


前側は元の状態、後ろは築造当時の姿に復元


石室正面、羨道は基部のみ


巨石を使った玄室(一部石材補充)


奥壁より巨大な側壁石材


(見学記)

同町御門、多胡碑記念館に移築復元されました。古墳は前を元の状態のまま、後ろ三分の一を築造当時の姿で復元されています。羨道は下部しか残っていないが巨石を使った玄室はよく残っています(一部石材補填とのこと)。奥壁より側壁の石が巨大なのが印象的でした。
すぐ側に片山1号があります。粘土槨を移築し埋め戻して墳丘を復元したそうだがこれじゃただの盛り土ですです。
多胡碑は記念館外の覆い屋の中に保存されガラス越しに見学可。でも写真撮影不可でした
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