塚原古墳群
群馬県みなかみ町(旧月夜野町)2005年5月訪問
現在46基確認
分布図:(現地説明板に一部加筆)

遠望:水口山古墳辺りから桜塚楓塚方向を望む、楓塚の側に説明板がある

水口山古墳
横穴式石室
位置:36°40′06″N 138°58′10″E
尾根先端に立地する墳丘

北向きに開口する石室

石室正面、羨道部はかなり破壊

玄室、長3m程度、他の古墳も奥壁は原則的に2段積み

奥から外、左片袖か

道西塚古墳
民家庭に残る墳丘

玄室

奥から外

馬場塚古墳
石室開口部

やや小型の玄室

奥から外

深沢塚古墳
墳丘、背後(右)が少し削られている

石室正面

整った玄室

奥から外

楓塚古墳
位置:36°40′00″N 138°57′55″E
石室開口部、前部破壊、玄室奥残存

玄室奥辺り

8号
古墳群の中では比較的墳丘が残っている

桜塚古墳
やや胴張りの玄室

2段積み奥壁奥壁

奥から外、羨道埋没

20号
墳丘

開口部

殆ど埋まった玄室

21号
鏡石を据えた奥壁、栃木県でよく見かけるタイプの石室

奥から外、羨道埋没

(見学記)
月夜野町上津にある後期の古墳群です。塚原集落の中を通って斜面に開けた水田を左手に見ながら登っていくと半壊状態の石室が開口していてここに説明板があります。分布図も載っていて石室開口の有無を記しているのが嬉しい(さすがに古墳の番号や固有名まではのってなかったけど)。46基が確認されていてまだかなりの数が残っているようで全て見るのは無理なので石室墳だけを重点的に探索しました。まず説明板の所にあるのが楓塚、これは石室前部が大きく破壊され玄室後ろ辺りが残っています。石材は比較的大きく奥壁は2段積み、この奥壁2段積みというのは基本的に他の石室にも共通しています。このすぐ側にも8号があり割と良好に墳丘が残っているが石室は開口していない。ここからすぐ上の道路東側に3基のの古墳が並んでいます。北側が桜塚で羨道は埋没していますが天井が抜かれて開口、ここから入れます。やや胴張りの玄室です。すぐ隣の20号は分布図では石室未開口となっていますが玄門辺りが開いていて内部が覗けます。殆ど埋没して石室上部がやっと見られる程度ですが。更に隣の21号も羨道は埋没していますが天井が抜かれてここから入れます。中に大きなガマがいたが彼は出ることが出来るんだろうか。この3基は奥壁が幅の狭い背の高い石で側壁は小型の石、やや胴張りの玄室と共通で古墳群の他の石室とはやや異質です。栃木県に見られる石室の似ていますね。集落に戻ると道路の西側民家の庭に道西塚があります。幸い家の人がいたので断って見学、こんなものの写真を撮ってどうするの、なんて言われましたが(汗)。ここの道路反対側に2基の石室墳が並んでいます。北側のは馬場塚で石室はやや小型、南側のは一部墳丘が削られていますが背の高い墳丘が残っている。石室も羨道は破壊されていますが玄室は完存、なかなか整った石室です。ここまでの古墳は小川沿いの東側に南北に並んで集中していますが水口山古墳はこれらからやや離れた東側の尾根先端に単独で立地、他の古墳が概ね東向きに開口しているのにこれは北向きなどいかにも盟主墳と言った感じです。石室は羨道がかなり破壊されていますが玄室は完存、長3m、幅高とも1.6mくらいです。他の石室と比べて規模石材の大きさとも一回り大きいですが卓越した規模と言う感じはないですね。町史跡。
現在46基確認
分布図:(現地説明板に一部加筆)

遠望:水口山古墳辺りから桜塚楓塚方向を望む、楓塚の側に説明板がある

水口山古墳
横穴式石室
位置:36°40′06″N 138°58′10″E
尾根先端に立地する墳丘

北向きに開口する石室

石室正面、羨道部はかなり破壊

玄室、長3m程度、他の古墳も奥壁は原則的に2段積み

奥から外、左片袖か

道西塚古墳
民家庭に残る墳丘

玄室

奥から外

馬場塚古墳
石室開口部

やや小型の玄室

奥から外

深沢塚古墳
墳丘、背後(右)が少し削られている

石室正面

整った玄室

奥から外

楓塚古墳
位置:36°40′00″N 138°57′55″E
石室開口部、前部破壊、玄室奥残存

玄室奥辺り

8号
古墳群の中では比較的墳丘が残っている

桜塚古墳
やや胴張りの玄室

2段積み奥壁奥壁

奥から外、羨道埋没

20号
墳丘

開口部

殆ど埋まった玄室

21号
鏡石を据えた奥壁、栃木県でよく見かけるタイプの石室

奥から外、羨道埋没

(見学記)
月夜野町上津にある後期の古墳群です。塚原集落の中を通って斜面に開けた水田を左手に見ながら登っていくと半壊状態の石室が開口していてここに説明板があります。分布図も載っていて石室開口の有無を記しているのが嬉しい(さすがに古墳の番号や固有名まではのってなかったけど)。46基が確認されていてまだかなりの数が残っているようで全て見るのは無理なので石室墳だけを重点的に探索しました。まず説明板の所にあるのが楓塚、これは石室前部が大きく破壊され玄室後ろ辺りが残っています。石材は比較的大きく奥壁は2段積み、この奥壁2段積みというのは基本的に他の石室にも共通しています。このすぐ側にも8号があり割と良好に墳丘が残っているが石室は開口していない。ここからすぐ上の道路東側に3基のの古墳が並んでいます。北側が桜塚で羨道は埋没していますが天井が抜かれて開口、ここから入れます。やや胴張りの玄室です。すぐ隣の20号は分布図では石室未開口となっていますが玄門辺りが開いていて内部が覗けます。殆ど埋没して石室上部がやっと見られる程度ですが。更に隣の21号も羨道は埋没していますが天井が抜かれてここから入れます。中に大きなガマがいたが彼は出ることが出来るんだろうか。この3基は奥壁が幅の狭い背の高い石で側壁は小型の石、やや胴張りの玄室と共通で古墳群の他の石室とはやや異質です。栃木県に見られる石室の似ていますね。集落に戻ると道路の西側民家の庭に道西塚があります。幸い家の人がいたので断って見学、こんなものの写真を撮ってどうするの、なんて言われましたが(汗)。ここの道路反対側に2基の石室墳が並んでいます。北側のは馬場塚で石室はやや小型、南側のは一部墳丘が削られていますが背の高い墳丘が残っている。石室も羨道は破壊されていますが玄室は完存、なかなか整った石室です。ここまでの古墳は小川沿いの東側に南北に並んで集中していますが水口山古墳はこれらからやや離れた東側の尾根先端に単独で立地、他の古墳が概ね東向きに開口しているのにこれは北向きなどいかにも盟主墳と言った感じです。石室は羨道がかなり破壊されていますが玄室は完存、長3m、幅高とも1.6mくらいです。他の石室と比べて規模石材の大きさとも一回り大きいですが卓越した規模と言う感じはないですね。町史跡。