23/09/21
福岡県みやこ町(旧勝山町)
二又池西古墳群(D支群)
23/09/14
福岡県みやこ町(旧勝山町)
二又池西古墳群(ABC支群)
23/09/07
福岡県みやこ町(旧勝山町)
小堤池北古墳群(A支群)23/08/31
福岡県みやこ町(旧勝山町)
小堤池北古墳群(B支群)
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経緯度の位置情報をグーグルマップやスマホアプリで使う際は世界測地系を使用してくださいgooglemapで日本測地系をそのまま使うと位置が南東にずれるので
測地系変換サイトで数値を世界測地系に変換してお使いください
#世界測地系を併記するようにしました、他記事も順次追加予定です・数値を選択して検索するとグーグルマップ当該位置が表示されます
・位置はずれていることもあるので参考程度にしてください
#ブログのURL
https://kofunoheya.blog.fc2.com/
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この記事のURL
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#リンクは自由です (個別の記事の紹介は直リンクでOKです)。
ありがとうございます、掃除をしてくれたんですか。
小迫大塚は初めて矢掛町に言った頃真っ先に行った思い出があります。
当時は他には荒神塚古墳くらいしか知りませんでしたが町内は随分古墳がありますね。
矢掛町はまだ未訪問の古墳がありますが今年は腰痛が悪化して行けるかどうかわかりません。
(出来れば小迫大塚古墳の記事にコメントしれくれればよかったです)
墳丘と周囲の草刈りをしました。墳丘の状態が良くわかります。
機会がございましたら立ち寄ってください。
最近でこそ天井の方も注目しますが初めの頃はドーム状の石室以外は注意することがなかったですね。
ただ天井が失われている石室も多いですからこの手の特徴は永遠に失われていますね。
古墳に興味をもつ前は古代史に興味がありましたが(話は逆か、古代史から古墳に興味をもったのかな)
記紀関連の本を読んだこともありましたが今ではすっかり忘れてますね。
平家蟹さんへ
昨晩、千川Ⅰ号墳のサイトを拝見しました。きれいな石室で思わず見とれてしまいました。全国的にみても、随分沢山あるようで・・・石室の実測図、出土遺物等を参考にすれば、石室の変遷や地域間の交流を探れそうな気がします。入谷11号墳は一度訪れたのですが、当時三角隅持ち送り石室しか関心がありませんでしたので、後に(日本の古代遺跡、京都1、保育社―p95)この古墳が中高式石室墳であることを初めて知りました。
随分前になるのですが、記紀に関心を持った時期がありました。崇神天皇紀に出てくる、垂仁天皇と丹波の女性、氷香戸辺の話ですが・・・神話的な話で当初は信用しておりませんでした。同時に、この垂仁紀には皇子として「春日部君」の名がみえます。
ところが、昭和58年に春日町山垣遺跡で「春日部君廣橋」銘の木簡が発見されました。この遺跡は700年―730年ごろとされ、日本書紀が成立したのは720年ですので、この説話が春日部君の伝記による可能性が浮上してまいりました。
群集墳の盛期は150年程しか差が有りませんので、各地域の古墳文化の流れを、深く追求すべきだと思うようになりました。
母系羽違うのですが、和気臣も同じく始祖は垂仁天皇とされ、丹後方面にゆかりが有るなど、とても興味深いです。
岡山の千畳田4号は中高の部分が狭いし、徳島の矢野古墳はその部分が広いし
中高式と言っても中央に向かってだんだん高くなるのもあるし色々バリエーションがあるみたいですね。
入谷11号は行ったことがないのでOBITOさんのサイトで見てみましたが写真だと中高式の様子はわかりづらいですね。
奥壁が巨石を縦2枚並べているのは時々見かけます。
その中でも縦2枚の上に巨石1枚乗せているのを天理市の塚平古墳タイプと勝手に称しています。
他にも上郡町西野山8号、大津市石神4号、出雲市山根垣古墳等など
石神4号もいま見てみたら中高式でしたね。
石棚石室があちこちにあるように中高式も山陰だけでなくほうぼうにあるんでしょうね。
平家蟹さんへ
今晩は!先日はコメントありがとうございました。
千畳田4号墳の石室を拝見しました。石材の面を随分きれいに揃えた石室だなぁと思いました。玄室の奥壁に巨石を二枚縦積みにしているのは、興味深かったです。京都府与謝郡の入谷11号墳の石室と似ているように思うのですが、どうでしょうか?。徳島県の矢野古墳の石室もサイトで見ましたが・・・これにはびっくりしました!問題解決の糸口になるんじゃないかと、かってに!思って居ります。
大歳神社古墳群の石室は中高式でしたか、いま見てみると天井を撮ってないから気がついてないのかな。
岡山県の中高式古墳は千畳田4号ですがあれは隙間が狭く山陰の中高式とは随分違うような気がします。
山陰の中高式で天井石が露出しているのを見たことありますが3枚の天井石がほぼ同大で
中間の2枚目が一段高くなっていていかにも中高式と言った感じでしたね。
丹波も山陰に近いからその影響が及んでいたのかもしれませんね。
今までのコメントからかなり古くから古墳をやっていたんだなと思っていましたが中断していましたか。
再開されたそうでまた一人仲間が増えて喜ばしいです。
私も一時期飽きが来始めた時がありました。
当時はネットもなくてこんなことしているのは私だけではないよなと思いつつ同好者と出会うこともありませんでした。
その内パソコン通信(懐かしい名前だ)でやはり同じようなことをしている人に出会い一人じゃないんだと実感
やはり仲間がいると思うと励みになりますね。
古い写真なども貴重だと思うので機会があったら是非ネットなどで公開してみてください。
私もデジカメ以前の写真が大量にあるのですがスキャナしている暇がありません。
平家蟹様へ
今晩は!先日は返信コメントありがとうございました。家庭の事情で七年ほど古墳から遠ざかっていたのですが、今年になってやっと再開することになりました。石室のネガフィルムは沢山あるのですが・・・未だにスキャナーに通してない状態で、情けないです!
ところで話は変わるのですが、平家蟹さんは以前大歳神社古墳群を視察に見えたようですね。
私がこの石室に初めてはいった時、あまりにも複雑な石室で、びっくりしました。
結局、県下初の中高式石室墳と言うことで落ち着いたのですが・・・・天井を懐中電灯で照らすと、おもわず吸い込まれそうな感じでした。玄室側壁にも持ち送りが認められる事などを考慮に入れますと、日本海周辺に見られるものとは異なり、穹㝫式石室をも意識して造られているように思いました。岡山県にもあるという事を、サイトで初めて知りました。これからが楽しみです。
現在ならレーザースキャナなんかで石室を数値化して復元出来るかもしれませんね。
全ての石室を数値化すれば時代や地域での変遷の傾向も分かるかも。
でもお金も時間もかかりそうです。
平家蟹様へ
先日は返信コメントありがとうございました。
おっしゃる通り、玄室の半分近くが埋没している状況では、正確な傾斜角をはかることは困難でした(苦笑)。しかし、何とかして築造時の石室の姿を復元したいと思ったのかも知れません。平成三年の分析記録を見ますと、以下のような記述があります。
玄室床は場の推定―上部幅が1.8m出あリ、約半分が地中であるとすると、計算上2.2mとなる。
玄室平面積の推定ー玄室長5.0mを参考とすれば(昭和45年の県文化財報告書第6集)を参考とすれば11.0㎡となる。これは氷上郡(丹波市)では伊佐口古墳(10.29㎡)をしのぎ、藤の目4号墳(13.2㎡)に次ぐ規模である…(一部訂正)。
このように記している事を思いますと…今となっては記憶が定かではないのですが、藤の目4号墳とは異なり、伊佐口古墳の様な玄室床面よりほぼ一直線に内傾立ち上がる側壁の姿を想像したものと思います。出土遺物は知られておりませんが、現在では6世紀の第三、四半世紀頃に築造されたのでは?と勝手に思って居ります。
普通名詞のような古墳名の場合上に地名をつけることがありますが付けないままのもあってこれも悩むところです。
石室内部の写真は時間が経ってもそれ程変わりはありませんが(私の場合でせいぜい20年ですが)時には新たに土砂が流入したり自身で石が崩れたりしているのを何件か目撃しています。
これらも貴重な記録になるのかな。
墳丘や周辺の環境は大きく変わっているのはしばしば目にしますね。
復元や保存処置がなされたならいいのですが時にはすっかり藪になって見つけるのも困難になったりします。
玄室の傾斜角ですか、すごい目の付け所ですね。
専門の本でも斜面に作られて全体が傾いているという記述は目にしたことがありますが角度まで測っているのは目にしたことがないような。
でも下が埋まっていると測定も困難ではないでしょうか。
平家蟹様へ
今晩は!先日はありがとうございました。やはり、塩ケ谷古墳です。塩ケ谷地区は岡田姓が多く、間違えていたようです。申し訳ありません。歌道谷は、少なくとも丹波市内では「うとぅ」と呼ばれています。塩ケ谷古墳も含めて59基を計測しましたが、未確認の古墳も多く、実際は100基近くはあるのではないか?と思っております。今ではその様なことはできないのですが、玄室の傾斜角を測っておけばよかったと、後悔しております。石室というのは、十年もたてば、随分様変わりします。写真記録というのは大切なものだと、最近つくづく、そう思うようになりました。
二間塚古墳も調査に見えたようですね!塚の手前は現在住宅地になっておりますが、ここはかつて実家の田畑の
が広がっておりました。昔、小学校への通学路脇にあり、懐かしい思い出でいっぱいです。近畿自動車道建設が計画された頃だったと思いますが、この古墳の東南部の尾根先端で前方後円墳を見つけることが出来たのも懐かしい思い出となりました。
以上、丹波霧の里よりのレポート報告です。
古墳名はあいうえお順で並べているのですが後から正しい読みがわかると並べ替えしなければいけないのが悩みです。
もっとも見てくれる人が正しく読んでくれないとあまり意味が無いのでそれ程拘る必要もないかと思うんですけど分かればやはり並べ替えしてしまいます。
以前はファイル名も古墳名にしていたのですがさすがにこれは後から訂正するのが面倒なので今は別の仕方になっています。
歌道谷は古墳があるので知っていましたが”うとうだに”じゃなくて”うとう”なんですか。
塩ケ谷岡田1号古墳の詳細な数値ありがとうございます。これは塩ケ谷古墳とは別物なんでしょうか。
あまり遺跡資料などを調べないので細かな数字は他の古墳HPなどに頼っています。
以前は巻き尺で石室内の寸法を計っていたりしたのですが最近はそれもしてないな(汗)
丹波市内だけで58基の石室開口ですか、やはりまだまだあるな。
平家蟹様へ
今晩は!先日はご返信頂き、ありがとうございました。
おっしゃるように、丹波市内には難読文字が多いです。地元春日町でも、鹿場(かんば)、歌道谷(うとー)等があります。塩ケ谷岡田1号古墳は、手前に家と竹藪があったために、その存在を幼少期は知りませんでした。初めて知ったのは、兵庫県の遺跡地名表を見た五十年ほど前だと思います。その後この古墳のすぐ傍らで銅鐸が発見されて、この古墳も注目されるようになりました。春日七日市遺跡を見通せて、しかも至近の距離にあるこの古墳は私の心を強く揺さぶりました。昭和62年9月16日の石室計測記録が残っております。
玄室長(4.3m)玄室上幅(1.8m)下幅(2.0m)高(1.1m)右袖幅(玄室側より見て)(0.5m)左袖幅(0.4m)羨道高(0.8m)長(5.8m)羨門幅(1.2m)玄室平面積(8.6㎡)です。
後日、丹波市内における開口する横穴式石室58基と比較検討してみましたところ、平面積が8.6を超えるものすべてが玄室高2.0m以上であることがわかりました。現在石組の約半分が地中に埋没しておりますが、築造時には丹波市最大クラスの石室であったと思われます。
以上、丹波霧の里よりのレポート報告です。
吉森さん、いらっしゃい。
以前は仙台に住んでいたので東日本がメインでしたがこちらに引っ越して今は西日本がメインとなっています。
全国制覇したいのですが(北海道沖縄を除く)秋田青森が抜けています。
当時でも行きたくなるような古墳がなかったのでもう今では行くことはないかな。
写真をお褒めいただきありがとうございます。
デジカメとなった04年以降はいいのですがそれ以前はスキャナで取り込んでいたので不鮮明、特に最初の数年は画質が悪く入れなおしたいんですけどね。
まだネットでの情報が乏しかった初めの頃は本を参考にしていたのですが古墳の場所が地名で表示されることも多く
ピンポイントで行くのが難しかったので殆ど自分の為に緯度経度を記録していました。
緯度経度が入力できるカーナビがあれが訪問がし易いと思うので是非活用してみてください。
山の上だったら道路が狭かったりなど簡単ではないことも多いですが。
兵庫県にお住まいですが、あそこも古墳が多いですよね。
未だ未訪問の古墳も多いのでまた行ってみたいです。
野上野の読みは”のこの”ですか、難読地名ですね。
地名の読みが難しいのも悩みの一つ、間違いがあったらご指摘ください。
これからも古墳のお部屋を宜しくお願いいたします。
何時でもご訪問ください。
平家蟹様へ
兵庫県丹波市の吉森と申します。額田大玉様より紹介して頂いたのですが、ずいぶん立派なお部屋ですね!。全国をくまなく探索されているご様子には敬服致しました。また、写真が鮮明なこと、経緯度をきっちりと記録されているのには、私にとって驚きでした。
塩ケ谷古墳がある野上野(のこの)には私の生家があります。現在私は二間塚古墳のある隣部落の多利に住んでおりますが、昔の懐かしい思い出がよみがえり嬉しかつたです!
また、訪問させて頂いてよろしいですか!?。