稲井田古墳群

岡山県総社市 2022年3月訪問

多数の横穴石室墳(見学順、古墳番号はHP「古墳奮闘」に従う)

西支群(仮称)
東支群へジャンプ)
4号
尾根先端やや西寄りに立地、墳丘は多少削られている


西向きに開口、狭い開口部


苦戦して見つけたからこれは入らなくては


開口部からの撮影、羨道天井がやや傾く


玄室良好、右の山側がやや傾くか


奥壁は縦長で右は2段積みという変わった構成、右側壁がせり出して奥壁の一部を隠している


奥から外、左片袖式、玄室前部天井も傾いている


尾根上から見た墳丘


5号
すぐ上に大きな墳丘


頂部が窪んでいる


大きな盗掘跡、石材全く見られず、両宮山と同様未完成の古墳ということはあるのかな


K号
 位置:34°39′05″N 133°39′49″E(日本測地系)
    34.65461645 133.66097283(世界測地系)
更に上に大きな墳丘、大きく削られている、これ全部墳丘だとしたら石室はかなり下の方になる


北向きに開口、狭い開口部


内部は良好、床面に落ちている黒いものは先行者の落とし物のメジャー


右側壁がやや傾いている


ストロボ無し


〃懐中電灯で撮影


奥壁は四角い鏡石+平石2枚、奥壁手前の石材は何でしょう


奥から外、土砂が流入しているが右片袖かな


〃ストロボ無し


〃懐中電灯で撮影


3号
4号東側にある、上から見た墳丘


東向きに開口、ざっくり削られている、西支群は大きく削られているのが多い


開口部正面、倉庫として使われていた跡がある、しかしこんな場所でどんな使い方があったか


玄室は完存、左側に異物


〃縦位置


奥壁は巨石鏡石+詰石、何となく違和感があるのは隙間にセメントが詰められているせいか


奥から外、大きな立柱石の右片袖式


〃ストロボ無し


〃縦位置


天井石奥から、大きな隙間がある


一応異物も撮っておこ、何に使ったんでしょう


東側下から見た墳丘


1号
 位置:34°39′09″N 133°39′53″E(日本測地系)
    34.65572748 133.66208379(世界測地系)
緩い尾根先端に築かれて大きな墳丘が残る、西向きに開口、これも大きく削られている


この古墳群は開口部の向きがバラバラなのに的確に石室開口部側が掘られている


狭い開口部、入って入れないこともないですが


取り敢えずカメラを突っ込んで撮影、玄室はよく残っています


〃ストロボ無し


右側壁


左側壁、土砂が流入しているし入ったとこで玄門は殆ど埋没しているので断念


山側から見た墳丘


尾根上から見た墳丘


A号
1号脇に僅かな高まり、古墳かどうか不明


2号
1号のある尾根西側緩斜面に立地、墳丘はほぼ流失


石室前上部は壊失


石室後部はよく残る、無袖なので入るまでもなく


奥壁は2段+平石2枚、最奥の天井石が一段下がる


入らない時は右側壁を撮って


左側壁を撮ってこれで終了


東支群(仮称)
6号
 位置:34°39′08″N 133°40′00″E(日本測地系)
    34.6537832 133.66402809(世界測地系)
尾根先端辺りに立地、大きな墳丘が残る


狭い開口部、上のはまぐさ石か


激狭開口部、入った人はいるのだが前日の雨で下が濡れ入ると泥だらけになりそうなので断念


カメラを突っ込んで撮影、石室は良好、再訪するつもりだったのであまり撮らず、奥壁に何か模様がある、この後の12号でも見られました


7号
尾根斜面に良好な墳丘が残る


ここも激狭開口部


もう再訪するつもりだったので適当に撮影、一度来ると2度めのモチベーションが下がるな


8号
6,7号と同じ尾根だがこちらは尾根上に立地


尾根上側から


ここも激狭開口部


羨道はかなり埋没も玄室はそれ程でもない、左側壁が大きく傾く


奥壁上部で隙間開口


側壁の傾き具合がよく分かる、むしろこの状態で崩壊していないことに驚き


9号
前記東側尾根上、これは一番上(南)にある小型古墳


開口部、石が邪魔をしている


小型石材の玄室、入って入れないこともないがここもパス


10号
9号から北に下っていきます、これも少墳丘


墳丘は天井を僅かに覆う程度に残る


開口部正面


9号と違いこちらは平石系、奥壁は平石4段積み


11号
更に下ると大きな墳丘


東側がザックリ抉られています


僅かに石材残存、これは側壁か


12号
 位置:34°39′04″N 133°40′04″E(日本測地系)
    34.65433871 133.66513908(世界測地系)
更に下ると大きく良好な墳丘


東向きに開口、ここは開口方向がバラバラ


しゃがめば入れる開口部、今までが狭かったからもう楽々


良好に残る玄室、側壁は直立、側壁も大きく基本2段積み


ほぼ1枚石の奥壁、この模様はなんだろう、蔦が這った跡かな、こんな日が当たらない場所で成長できるのか


奥から外、左片袖式、側壁や天井も面が整えられている


〃ストロボ無し


奥から右側壁、ぶれた


〃左側壁


南側から見た墳丘、ここも尾根斜面に立地


13号
更に北側尾根斜面に緩い墳丘


南側に大きく開口、こういう場合は大抵前部が破壊されている


案の定良好に残るのは最後部だけ


天井も1枚だけ残存


ほぼ1枚石の奥壁


左側壁、小型石室なら奥壁として使えそう、側壁を正面から撮るのも滅多にない


(見学記)
総社市新本、園尾寺南方の丘陵上にある10基以上の古墳群です。中に入れる石室が幾つもありますが大きく東西に分かれています。
まずは仮称東側支群から。お寺南側に大きなため池がありそこから林の中に入っていく道があります。100m程行くと大きな墳丘(6号)山道側に狭い開口部、前日の雨で下が濡れていて入ると泥だらけになりそうなので内部はカメラを突っ込んで簡単撮影、更にすぐ上にも7号、こちらも6号と同様の状態なので簡単撮影、どちらも後日訪問するつもりだったがその前にブログアップの日が来てしまった。一度行くとモチベーションが下がるしこの狭さではもう行かないかもな予感(汗)。更に上に8号、こちらは6,7号と違い尾根上でちょっとわかりにくい。石室はあるが隙間開口、内部を撮ってみると山側側壁が大きく傾いています。奥壁側も隙間があるがこちらも入るのは無理。隙間開口でよかったが楽に入れるのなら多分入ってる(汗)。東側尾根にも幾つかの古墳がある、まずまっすぐ東に行って小さな石室に遭遇、9号か10号か、多分9号だろうと思い北側に行くと小型の石室遭遇、これで9,10号確定、場所が確定すると後は尾根上を北に下がっていくだけ。次に遭遇するのが11号、大きな墳丘が残っていますがザックリ掘られ石材が僅かに見られるのみ。更に北に12号、この支群では最大でしょうか、南側に開口、前部が破壊されていますが玄室はよく残っています。奥壁は1枚石、まるで装飾のような模様がありますが植物か何かの痕跡のようです。更に北側尾根筋斜面に13号、これも南側開口前部が大きく破壊され後部しか残っていない、これも奥壁はほぼ1枚石です。溜池堤下辺りに駐車可。
仮称西側支群、東支群とは大きな尾根を挟んだ西側に分布、だいぶ離れていて別の古墳群としてもよさそうなんですけどね。ここはかなり苦戦しました。HP「古墳奮闘」指定の駐車場所(ここも最後50mは未舗装で厳しかったけど)から山道を奥に入っていきます。多分奥にある砂防ダムの為の作業道、もう廃道同然になっています。北側から別の山道が合流してその辺りに古墳がある、と思って右側を注意していたんですが見当たらず結局砂防ダム辺りまで行ってこれは違うだろうなと思って引き返す。何とか4号を見つけて一つ見つけたら後はここの6基を見つけることができました。個々の古墳の説明は省略して3号南側尾根上に5号がありますが大きな墳丘に大きな盗掘跡、石材は全く見られません。盗掘するならもっと手前の3号や1号の方が楽だろうになんでこんな上のを盗掘した。ひょっとして未完成の古墳か。東支群の11,12号もそんな関係、奥の11号の方が盗掘されています。更に上に仮称K号があります。これも南側が大きく盗掘され下の方に開口部が見えている。中に入ってみると玄室は完存していました。この古墳群の中でも最大クラスか。しかし北向きに開口、石室の位置からして上部の墳丘が随分高いというか大きい、不思議な古墳でした。中に新しいメジャーが落ちていました。誰かが来たもようですがK氏でないのは確認している(笑)。見学が終わって車の場所に帰る際に探していた合流する山道を見つけました。痕跡道という程ではないけどこれは気がつかないわ。 

高塚古墳群(鎮守様塚古墳他)

岡山県倉敷市(旧真備町)2009年3月訪問、22年3月再訪

(22年)
4号
 横穴式石室、全長3.5,幅1.14,高1.4m(現状)
 位置:34°38′48″N 133°40′23″E(日本測地系)
    34.64989465 133.6704164(世界測地系)
尾根筋東斜面に立地、初めルートを間違えたので見つけた時はホッ


東向き斜面だがほぼ南向きに開口


迫力のある天井石


横から見ると奇妙な顔のように見える、当時のままなのか、後世加工されたか


前に羨道基部が残っている


石室内部は入り口がやや埋まるもよく残る


ストロボ撮影の方がハッキリクッキリ


奥壁は1枚石、将棋の駒のような形


奥から外、天井は2枚残存


(おまけ)
4号に行く前にルートを間違えて別の尾根で見つけた石仏、もう痕跡程度の道もないし誰も来てないだろうな


1号(鎮守様塚古墳)
 横穴式石室、全長8m、玄室長5.4,幅1.5,高1.8m
 位置:34°38′39″N 133°40′14″E (日本測地系)
    34.64739484 133.66791671(世界測地系)
県道から見えている、せっかく来たので序でに撮影


まぁ~るい墳丘


13年前と全く変わりなし


短い羨道、竹があるのも変わりなし


明るいので撮りやすい玄室


大きな天井石が2枚、入口側に小が1枚


右側壁


左側壁、面を整えているのとないのがある


奥の方には小石の敷石


奥壁は鏡石+平石、モルタルが塗られていたかも、左側中段の石材は斜めに架けられている


奥から外、右片袖式


〃ストロボなし


(09年)
1号(鎮守様塚古墳)
県道から見えている


墳丘が良好に残る


石室正面


短い羨道、まぐさ石が一段下がる


細長い玄室


奥壁は鏡石+上に1枚、左側辺りがちょっと雑


天井石が巨石、底面も平面に整えられている


奥から外、片袖式


(見学記)
(22年)
以前訪問した鎮守府様塚古墳は高塚古墳群1号、4号があると言うので行ってみました。1号東側にある集落背後から谷筋に入っていく。小さな溜池辺りから右側尾根筋を登っていく、尾根上方の東側斜面に立地、墳丘は殆ど流失し南向きに開口、石室前上部が壊失していますが全長3.5m程の石室が残っています。奥壁は1枚石で将棋の駒のような形でなかなか格好いい。小さな溜池と言いましたが殆ど水は溜まっておらず気が付かずに谷奥まで行き適当な場所で右側尾根筋に登ってしまった。これは間違えたと思ったがそこで石仏発見、よくある石仏巡りの為の石仏のようです。でも痕跡道もなくもう誰も来てないだろうな。傾いて側の木にもたれかかっていた、元に戻しておけばよかったか。しかし1号とは300m以上離れているのに同じ古墳群なのか。もっと接近していても別の古墳群になることもあるしほんと古墳群の定義はわからない。序でに1号も撮影したけど中の竹もそのままで以前と全く変わりなし。2号は埋没らしいけど3号はどこ?。

(09年)
倉敷市真備町市場、真備美しい森へ行く途中の道路沿いにあります。墳丘石室とも良好、どうしてこれ程の物が全く知られてなかったんだという感じです。羨道はやや短く一段下がったまぐさ石が目につきます。玄室は全長5.4m程、持ち送りも殆どなく奥壁は鏡石の巨石に一段重ねています。左側側壁との間にやや隙間があって上部は石を詰めているけどややその場しのぎな感じ。天井石は3枚実質2枚か、奥のが特に巨大で底面を平らに整えています。側の道路に駐車スペース有り。

両宮山古墳・和田茶臼山古墳(西高月古墳群)

岡山県赤磐市(旧山陽町)西高月古墳群 1988年1月訪問、94年4月、22年3月再訪
両宮山古墳・和田茶臼山古墳、小山古墳、朱千駄古墳森山古墳廻り山古墳

両宮山古墳
 前方後円墳、TL190,RH20
 位置:34°44′13″N 134°00′18″E (日本測地系)
    34.74016899 134.00233051(世界測地系)

茶臼山古墳(和田茶臼山古墳)
 前方後円墳、R20,H5
 位置:34°44′15″N 134°00′13″E (日本測地系)
    34.74072443 134.00094174(世界測地系)
(22年)
外堤南西隅から、墳丘裾を修復中、墳丘というより溜池としての修復か


西側周溝を北から


茶須山からの遠望、林がなくなっている部分は88年当時から変わりなし


東側渡り堤を通って前方部にある神社へ、見えているのは養蜂用の巣箱


前方部に神社、建物は新しそう、埴輪も葺石も発見されていないそうです


外堤南東隅から


周溝東側を南から、東側がやや高くなっているのかこちらがわは水が奥まで入っていない


前方部は手前右斜め方向にあったようです


茶臼山越しに両宮山


(94年)
後円部北側周溝を西から、西側は満水だとこの辺りまで水が来ている


幅広い周溝、ここに水が溜まっていたことはないだろう


後円部北東側崇高を北から


茶臼山から見た両宮山、だいぶ高い位置にあるのがわかります


南側から見た茶臼山


東側から


西側から、農業用ハウスはなくなっている


北側から、これもほぼ定番のアングル


(88年)
22年_1と同じアングル、満々と水を貯めた水面が美しい


これも22年_2と同じアングル、20年以上経っても同じアングルで撮ってるな


北側主軸線上からの眺め、西側周溝の方が地形が低いのがわかる


西側外堤、ストリートビューで見るとあの家はまだあった


この頃はまだ上に説明板がなく円墳だと思っていた


(見学記)
山陽町穂崎,県道27号のすぐ北側にある全長190m,後円部径104m,高21.7m 県内第3位の大型前方後円墳です。墳丘の保存状況もよく両側に造出も残っていますが全体が森になっていて墳丘上に行けるのは前方部にある神社までです。ここに説明板が立っていますがこちらは両宮山古墳群となっています。この説明板の位置も別の位置にした方が多くの人に見て貰えると思いますが(こういう例はよくありますね)。廻りに広い周溝があって現在南側に堤防があり北側を除いて水が貯まっていますが古墳が緩斜面に位置していますから本来は水は 貯まっていなかったんじゃないでしょうか。北側に陪墳の茶臼山古墳があり径20m の円墳ですが前方後円墳集成ではこれも前方後円墳となっています。両者とも国史跡。

小山古墳(西高月古墳群)

岡山県赤磐市(旧山陽町)西高月古墳群 1988年1月訪問、94年4月、22年3月再訪
両宮山古墳・和田茶臼山古墳、小山古墳、朱千駄古墳森山古墳廻り山古墳

小山古墳
 前方後円墳、TL55,R35,FW16、4C末
 舟形石棺
 位置:34°43′52″N 134°00′44″E (日本測地系)
    34.7343366 134.00955229(世界測地系)
(94年)
西側から、88年_1と同じアングル


南西側から


西側側面は裾のラインがよく分かる


南東側から


東側から


溜池越しに、壁紙サイズでは粗くてとても使えない


後円部北東から


南東丘陵上から、高速道路が出来、両宮山が見づらくなった


少し近寄って


後円部から前方部、神社参道になっている


前方部から後円部


舟形石棺破片、破片自体は動かされていない感じ


(88年)
西側側面、いい姿で残っています


南東から、遠方に両宮山が見えていました


社殿背後に舟形石棺破片散乱


(見学記)
朱千駄古墳の東方,盆地南側の火打山麓に位置する全長53mの前方後円墳です。後円部に神社があり前方部が参道になっている以外墳丘の保存状況はよくシンプルな形が良く見えます。神社の建物背後に阿蘇石製の舟形石棺の破片があります。破片ですが特徴のある蓋の丸みや両端の縄掛け突起が見えています。すぐ近くにある同規模の朱千駄,小山古墳の石棺の違いが興味深いですね。なお火打山を越えた南側麓(旧瀬戸町)に玉井丸山古墳があります。墳丘上に郷土資料館などの建物があって変形が著しいですが全長137mの前方後円墳です。「日本の古代遺跡(岡山)」には載っていますが「前方後円墳集成」には載っていません。

朱千駄古墳(西高月古墳群)

岡山県赤磐市(旧山陽町)西高月古墳群 1988年1月訪問、94年4月、22年3月再訪
両宮山古墳・和田茶臼山古墳小山古墳、朱千駄古墳、森山古墳廻り山古墳

前方後円墳、TL60、5C
 長持形石棺
 位置:34°43′50″N 134°00′08″E (日本測地系)
    34.73378068 133.99955326(世界測地系)
(22年)
竹林が少し伐採され後円部が見やすくなっていた、県道で少し削られているようです、説明板の位置が変わっているが基本的には変わりなし


北に下がる緩斜面に立地なのがわかります


南側は溜池堤と一体化してわかりにくくなっている


前方部は畑、後円部に比べて前方部が長いか


右端辺りが前方部端のようです


(88年)
多分森山古墳からの遠望、現在は間に高速道路が出来たので直接には見えない


左側の前方部がハッキリしている


県立博物館に展示されている石棺(奥)、手前のは岡山市八幡大塚古墳(消滅)出土石棺


(見学記)
盆地の南側山麓,阿部に位置する全長65m の前方後円墳ですが,現在南側に溜池があり、その堤防のようになっています。名前の由来は明治時代の盗掘で大量の朱が出土したことによります(すぐ想像はつきますね。又後円部から出土した竜山石製の組合式長持ち形石棺が県立博物館に保存されています。県史跡。
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